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書籍名:谷風叢話 著者:内藤弥一郎著 発行年:明27.11 仙台:耕文堂, タイトル:大阪勧進相撲 ページ:9ページ 大阪勧進相撲 大阪勧進相撲の濫觴は、人皇第百十四代 東山天皇の元禄五年、袋屋伊石工門と云ひる者願ひ出て、初めて南掘江高木屋橋筋立花通りに興行せしを以て鏑矢(はじめ)とす、其の時の場所は四十間四方にて、入口は四箇所なりし。其後大山次郎右衛門なる者願び出でし所、此の時外にも願人ありたれば、大山にのみ許可(うる)し難き事情あるに因り、則ち願人等をして抽選せしめ、共の当選者に許可(きょか)せられ、勧進元と定められたり、此の事永く例となり、毎年十二月二十日を以て、大阪町奉行所に於て抽選を行ひ、勧進元を定めらるヽ事となれり、而して場所は最初は堀江と。難波新地の両所と為し、隔年に興行するの例なりしが、追々堀江は土地の繁盛を来ずに従がひ、人家稠密の地となり興行の余地なきに至りたるを以て、追々は専ら難波新地にのみ。興行することになれり。 ご参考 変体仮名 江戸時代以前は仮名が現在のように定まっておらず、色々な仮名が用いられた。 明治になっても少し変体仮名がのこっており、1900 年(明治 33)の「小学校令施行規則」で統一された。
書籍名:谷風叢話 著者:内藤弥一郎著 発行年:明27.11 仙台:耕文堂, タイトル:京都勧進相撲 ページ:7~8ページ 勧進相撲の開基 京都勧進相撲 京都勧進相撲の開基は、山城国愛宕郡田中村干菜山(かんさいざん)光福寺(世俗に干菜寺(ほしなでら)と云ふ)開山より四代目宗円和尚と云ひる住僧、当山の鎮守八幡宮を再建せんが為め、人皇第百十一代 後 光明天皇の寛永二十一年十一月中、相撲興行致したき旨、願ひ出て免許せられたるを以て、其の翌正保二年六月下鴨会式の内、十日の間興せしことあり、是を我国勧進相撲の濫觴(はじめ)とす。其の後凡そ四十余年の間中絶し、元禄二年山城国伏見又は淀にて勧進相撲ありたり。然れども此の時は、京都にありし程に盛況(さかん)ならざりしと云ふ、人皇第百十四代 東山天皇の元禄十二年、洛東岡崎、洛西吉祥院村などにも興行あり、又た同年に西朱雀村にても興行あり?(注1)りし事、古書に見えたり。其の翌元禄十三年、干菜山光福寺に勧請しある、八幡宮大破せしを以て、之を修繕せんが為同寺五代目の住僧、正慶和尚と云ひるは、前例に因みて勧進相撲を願ひ出たるに、是れまた免許となりたり、此の時は新田村赤宮にて、晴天七日間の興行せり。是れ世に名高き、高野川原の相撲と云ひなるなり。同地は即ち勧進相撲の二度目の奮地なり。其の後人皇第百十五代 中御門天皇の正徳五年十一月間寺内破損の箇所を修理せんが為、同寺六代目の住僧、順栄和尚は前年の例に因り、勧進相撲を願ひ出て免許となり、翌正徳六年に直葛原に於て、晴天十日の間興行せり、是より以来年々継続し来りて、場所は二条川原を以て本場所と為しありしが、その後故ありて八坂神社の境内を以て、本場所と定め、年を追ふて繁盛し、今日の盛況を見るに至れり。 注1 変体仮名読めない:ありぬりしこと?3文字目が読めません。 明治に入ってもちょくちょくと変体仮名が使われているようです。「志」も変体仮名で 漢字ではありません。江戸時代の文書になると全く手がでませんが、幸運にも お目にかからないので助かっています。