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2007 05,19 13:42 |
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注 志賀清林は史実として実証されていない。また谷風以前の三横綱も史実としては横綱でなかったことはほぼ明らかである。吉田司家の由緒に関しても正しいとは限らないので、下記に書かれていることも真実ではないかもしれないことは念頭に置いてほしい。 本朝相撲司御行司吉田家の由来を尋ぬるに、元祖を吉田豊後守家次と云ふ、木曾義仲の家臣なり。是より先き 聖武天皇の時、志賀清杯なるものあり、相撲節會行司官の初代にして其の子孫代々行司の職を襲きありしが、節會一時中絶し、志賀家も亦た 淳和天皇の天長年中断絶したり。其の後 後鳥羽天皇の時相撲の節會再興せらるるに當り行司の官なきに因り、其の人を聘し決められたるに、吉田家次は行司の故實に委しき由、叡聞に達し即ち行司の職に任せられ、名を追風と賜ふ、日本相撲司御行司の名じ始まれり。後文治二年に至り、十五代追風の時に當り、朝廷にても相撲の節會行はれずなりたるを以て、行司の官は空職になりたれば、ニ條公に便り、武家奉公いたしきむねを請願し勅許を蒙むり、細川家に仕へ善左エ門追風と改め、代々細川家ほに仕ふ、後徳川家康公の時に至り江戸へ召され行司を勤めしめらる、其後寛政三年徳川家斉公、吹上御殿に於て、谷風、小野川両関の相撲上覧の時、再び召されて行司を勤む、祖先以来血統連綿として、當手吉田善門氏まで、実に二十三代にして、七百年に及ぶと云ふ。寛政元年十一月十九代追風は谷風及び小野川の両力士を其門下に容れ、横綱と免許したるに因り、取沙汰幕府に聞こえ、時の寺社奉行牧野備中守より、吉田家の相撲道に於ける来歴を、巨細申し立てべき旨を達せられたるの時の答申書左の如し。 PR |
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2007 05,19 11:39 |
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書籍名:谷風叢話 |
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2007 05,19 11:23 |
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書籍名:谷風叢話
著者:内藤弥一郎著 発行年:明27.11 仙台:耕文堂, タイトル:京都勧進相撲 ページ:8~9ページ 東京勧進相撲 江戸勧進相撲の濫觴は、人皇第百十代 明正天皇の寛永元年、明石志賀之助と云ひる者、初めて寄相撲と号け、四谷塩町に於て、晴天六日の間興行せしを以て鏑矢(はじめ)とす。其の後江戸に於ける、勧進相撲の中絶すること、三十二年人皇第百十二代 後西院天皇の寛文元年相撲年寄等協議の上、種々(いろいろ)に手を尽し願ひ出て免許(ゆる)され、夫より年々継続して今日に及べるなり。 |
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2007 05,19 09:19 |
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書籍名:谷風叢話 |
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2007 05,18 22:49 |
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書籍名:古今相撲大要 ○横綱免許の事. 此横綱免許は寛政元年谷風小野川両人に始めて授与されしより後阿武松緑之助、稲妻雷五郎、不知火諾右衛門、秀ノ山雷五郎、雲龍久吉、不知火光右衛門、陣幕久五郎、鬼面山谷五郎、境川浪右衛門及び梅ヶ谷にて都合十二人なり茲に最初谷風小野川に授与されし今の梅ヶ谷に渡された免状とを記す 免許 寛政元酉年十二月十九日 吉田追風 判 証状
免状
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