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2007 05,18 21:53 |
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書籍名:古今相撲大要
著者:岡敬孝 発行年:明治18年6月 タイトル 相撲行司役の事 四十五代 聖武天皇の神龜三年奈良の都に於て相撲の節會を行はせたまひし時志賀淸林なるものを召て行司官とせらる是れ行司のはじめなり此頃まで相撲の作法整はず勝負の判断明かならさりしがらめ争ひの端を開くこと往々ありしに依り淸林か相撲の故實に精しきを聞しめされ則ち舉て行司官とせらしなり夫より相撲の式作法全く備はり子孫其職を継ぎしが壽永の頃に至り十四代にして其族断絶せしかは八十二代後鳥羽天皇の文治二年相撲節會を御再興の時他に行司官を勤むへき者なきやを尋ねさせたまひしに元木曾義仲の旗下の士にて越前に退居せる吉田豊後守家継は志賀氏より相撲の故實の傳を受けたる趣 叡聞にたっしけれは召て節會の御行司に仰付られ五位を叙し名を追風と賜ひ唐團扇(獅子王を名く)及ひ木劔等をも賜はり相撲司御行司の家と定め置かるへき旨勅命を蒙れり是れ今の吉田追風の先祖にして子孫相継で豊後守追風と称し相撲節會を行はせらるヽ時は必す其御行司役を勤め又諸國に興行の相撲の儀式は總て吉田氏の故實に據ること猶ほ往時の志賀氏に法とりし如く夫より幾多の年月を經て永禄年中に至り京洛中相撲の技専ら行はれしかも礼式亂れて勝負の決断明らかまらさりしかは十三代の追風氏其弊を改めて舊式に因らしめ又 正親町天皇數代中絶せし相撲節會を御再興遊はされしに依り先祖の如く御行司を役を勤め其後元龜年中に關白二條公同氏を召て相撲の例式を問ひ一味淸風の四字を自書したる團扇を賜はり又關白近衛公よりも烏帽子狩衣等を賜ひまた天正年中織田信長公に召されて武家相撲の式を定め其行司役となり豊臣秀吉公にも屡ゝ召されて行司役を勤め團扇等を賜はり其後徳川家康公に江戸へ召されて将軍上覧の式を定め且つ行事役を勤めたりまた一四代の追風氏は京都五條にに住み相撲節會の御行司を勤め團扇を賜はり關白二條公よりも織紋の巻物を賜ひしかは行司の装束唐衣四の袴となせり元和年中紀州和歌山に於て東照宮の御祭典の節紀州公より招かれ一里塚といふ所にて祭典相撲會の規式を行ひし節候より無銘の刀一腰と麻上下等を賜はる一五代の追風氏に至り朝廷の相撲節會中絶せしを以て武家奉公を願ひ 直許を得て萬治元年より細川家に仕へ是より世ゝ細川家の家臣となれり然れとも相撲の行司役なることは幕府に於ても聞届けられ十九代の追風氏は寛政三年に将軍家齊公吹上御庭に於て相撲上覧の節式の行司役を勤め白銀を賜はり同年六月また濱御殿に於て行はれし時も例の如く勤めしといふ吉田氏一五代以後は世ゝ皆通稱を善左衛門と呼ひ今の二十三代は善門と稱す元祖豊後守家継より凡そ六百九十四餘年の久しき今日に至るまて相撲の例式世ゝ相傳し行司并に力士の免許等は總て吉田氏より出し行司の門弟たる者數多ありし其中には織田信長公相撲御覧の節行司を勤めし公の御内人木瀬蔵春庵又は元禄年中将軍綱吉公牧野備後守方へ成らせられ相撲御覧の節其行司役を勤めし牧野家の鈴木源右衛門といへる人其他式守木村など孰れも吉田氏より故實の傳授をうけ今日に至るまで各ゝ其業を継き有名の者多かりし吉田氏には昔時 後鳥羽天皇正親町天皇より勅賜の物品及ひ關白二條近衛両公等より諸品は皆な秘蔵して今に保存するといふ PR |
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