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2007 05,19 14:38 |
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書籍名:大相撲勝負四十八手図解 1.かものいれくび 本文: 双方ほぼくてゆうにてくだけば おの?み??とうぼうがえし ??きぬかつぎほにも?つ (分からん) 5.26現在 双○同じくてやうにて くだけば おのなみまくら とうぼうがへし ○事きぬかつぎ 等にもなる コメント 鴨の入れ首 互いに相手の脇の下に首を入れあう形。勝負をつけるにはくるっと回転して反り返るそうだがまず出ない。 私はずっと鴨の入れ首はラグビーのスクラムを二人でしたような形だとばかり思ってた。これも鴨の入れ首の一首(一種)といえるだろうとは思うが典型的な形ではないようだ。 技の説明文がよく読めない。 少し分かったところがある 1行目 「ゆうにて」ではなくて「やうにて」=様にて 2行目 「おのれからとんぼうがへし」ではないだろうか? 2.むこうづき 本文: むかふづき 四十八手は勿論手くだき 手さばき???にわかつ 5.26 四十八手は勿論手くだき 手さばきさまざまにわかつ コメント 向こう付け 現在では決まり手ではない。過去の四十八手には決めリ手でないものも含まれている事もよくある。 上の例の鴨の入れ首も決まり手だけでなく、双方首が入った状態を指して言う事が多い。 半身で「向こう付け」を行うといわゆる「食い下がり」である。 3.かわづがけ 本文: かわづがけ 世人云いたふるゑまきて?しかれども河津が 仕?し?に??へる人多し、??あらず 俣野とはまうせしに河津は無双(ぶそう)の大力にて 俣野をさしあげたる時俣野河津にかけし右に かはづがけといふ・・・・ 5.26 世人云たふる名高き手也 しかれども河津が 仕初し様に○○へる人多し、さにあらず 俣野とすまふせしに河津は無双の大力にて 俣野をさしあげたる時俣野河津にかけし故に かはづがけといふ また○が手也 委は古きにつまび○也 ○○○此手は上○より○てく蛙がけといふ ○るに 河津俣野すまふのとき此手○○りし○に こんしゅうせりといへり よつて○○を持ゆ コメント 河津掛け 説明のところに、河津掛けの由来がかかれているが何が書いてあるのか もう一つよく分からない。 河津と俣野との一戦に河津掛けは現れた。この戦いは曽我物語(時代は鎌倉初期。源頼朝が山中で余興で開いた相撲大会)に出てくる話ではある。相撲は曽我物語りのメインストーリーとはあまり関係ないという話を聞いたことがある。どの道史実ではないと思われるが、時代によりどちらが掛けたかなど混乱している。最終的には俣野(悪者役)が掛けたが、河津(善玉)はものともせづごうぼ抜きに吊り上げた、その場面がこのイラストにも書かれている。掛けているのが俣野で、吊り上げているが河津の役回りである。説明文では河津が差し上げた時俣野が技を掛けたとなっている。掛けられたのを吊り上げたのか、吊られたのを河津掛けで防いだのか?まぁどっちでもいいや。 ご参考 www.city.yokohama.jp/me/totsuka/tmtnl/018.html 比較的危険な技ということで小学校などでは禁止されている。しかし実際にやってみると結構うまくかかる。足を絡ませ巻きつけるのこつ。自分の足首までうまく絡み絡んだ親指を支点にするように相手を自分の足を軸に回しながら倒すとうまくいく。もちろんタイプの異なる河津掛けもありジャイアント馬場などは相手が倒れてくれるのは前提にあるので、かなり違った形になるのはやむを得ない。 イラストでも親指まで絡んでいるので、足の力が強ければ、曲げている足を伸ばすとその足の回りを回るように相手は体制を崩す。この場合抱え上げられているので力が入りにくいのと、倒れたとき自分が咲きに落ちるかもしれないという問題点はある。 4.しゅもくそり 本文: 此類にてんかうぞりしゆもくぞり ??????? 5.26 此類 てんかうぞり しゆもくぞり なみまくら等 ○○ コメント 撞木反り 撞木とはお寺の鐘を突く棒のこと。イラストでは倒れたところが書かれているが本来は抱えて立ち上がる。そのときの形が撞木ににているのでこの名があついた。撞木反りの仲間に撞木鮫がいる。www.members.aol.com/yoshigfish/Sharks-Rays/hammerhead.JPG 柔道でいうと肩車に相当する。相撲では撞木反りはもちろん、反り技はめったに見られない。最近決まり手が追加になった伝え反りはたまにでるが、本来のそりわざとは首が重視されない点で少し違う。(外襷も首は使わない。)一方柔道では肩車は結構現れる。ただし自分が多少先についてもいいので、低い位置からもぐりこんで小さく担ぎ、反り返るようだ。下からもぐりこみに行く時点でたいてい足の裏以外がたたみに触れているので相撲ではこの掛け方は無理だ。しかし最後の反り返りの瞬間などは、おそらく相撲のそり技と共通するものがある。
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2007 05,19 14:16 |
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2007 05,19 14:09 |
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吉田司家の答申書
書籍名:谷風叢話 著者:内藤弥一郎著 発行年:明27.11 仙台:耕文堂, タイトル:行司装束の由来 ページ:79ページ 古来行司役の装束は侍士烏帽子を頂き素襖を着し露を結びて襷とせしが、勧進相撲と為りてより,烏帽子を廃し茶筅髪とし、素襖を陣羽織に替へ裁附を穿ちたり、此の出立漸やく久しかりしに、享保年中に至り、又た其の装束を変して、着流し小袖の上に上下を着し、股立を取て出立ことヽ為り、現今に及ぶまで此の装束なり。而して行司の位地関取力士と同格と為るに及んで、土俵の上、足袋を用ゆる事を許され、是より功を積み位地も愈々進み、土俵の上、草履を用ゆることを許さるヽに至て、熨斗目、麻上下を着用す、乃ち相撲大関と同格なれば、大関の外には行司を勤めざるなり、此の位地に座する者古来より木村庄之助及び式守伊之助を名乗るものに限るとなり。 |
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2007 05,19 14:07 |
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吉田司家の答申書
書籍名:谷風叢話 著者:内藤弥一郎著 発行年:明27.11 仙台:耕文堂, タイトル:行司団扇の由来 ページ:78ページ 而して後世勧進相撲となりし以来、相撲の繁栄と共に、行司も数多出てしと雖も、吉田家の家傳を受けしものは、木村庄之助、式守伊之助の両人に限り、其の他は悉く此の両人より傳はりしなりと云ふ。然れば團扇に一味淸風と書し真紅の紐を附けしは甚だ重き事として、この両人の他には、之を用ゆる事を許さざるの例規なり。但し明治十六年の頃なりき、大関三人あり是等の大関等、各々分れて三組となり、地方へ出稼せしとき、大関に對する行司も、三人を要すると以て別格の詮議を為し、木村庄之助、式守伊之助両人の外更に一人の行司に、この團扇と草履とを許せし事ありしが、これは只一時の事なりしを以て、其の後はまた庄之助、伊之助の両人のみとなれり。 |
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2007 05,19 14:00 |
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吉田司家の答申書
書籍名:谷風叢話 著者:内藤弥一郎著 発行年:明27.11 仙台:耕文堂, タイトル:相撲司吉田家由緒 吉田司家答申書 ページ:77ページ (前の投稿に続いて記載されています) 一、相撲の起りは、天照太神の御時より始まり朝廷にて 垂仁天皇の御宇相撲の節會行れ申候へ共未た其作法不正争の端のみ罷成勝負の裁断難定 聖武天皇神龜年中奈良都におゐて近江國志賀淸林と申者を召御行司に定れれてより相撲の式委敷相備り子孫相続の處多年の兵乱相続節會行れ不申志賀家も自然と断絶仕候 一、 後鳥羽院文治年中再相撲の節會被行處志賀家断絶の上は御行司相勤者無之普く御尋御座候處私元祖吉田豊後守家次と申者越前國に罷在志賀家の故實傳来仕候旨達叡聞被叙従五位追風の名を賜り朝廷御相撲の御行司に可被定置之旨蒙勅命此時木剣獅子王の御團扇を賜り代々相撲節會の御式相勤申候又承久の兵乱起り節會も中絶仕候 一、 正親町院永録年中相撲の節會被行候處十三代目追風罷出如キウ例相勤申候 一、 元龜年中二條關白淸良公より日本相撲之作法二流無之との事にて一味淸風と申御團扇并烏帽子狩衣四幅の袴被下置候其後信長公秀吉公権現様御代にも度々御相撲の式相勤申候元和五年四月十七日於紀州和歌山東照宮様御祭禮御相撲之式依御頼御祭禮奉行朝比奈總左エ門と諸事申合相勤候依之御刀拝領仕候 一、 十五代追風に至り朝廷御相撲之節會も自然と御中絶に相成れ不申候二條様恩家には相撲に付御懇之筋目御座候に付他へ罷出申度段奉願候處願通 叶萬治元年より當家へ罷出 勤候 一、 元禄年中常憲院様牧野備前守様へ被為成相撲上覧之節彼方様御家来鈴木梶右エ門と申人入門之御頼有之将軍家上覧之式一通至相傳品々拝領物仕候 一、 元祖より私迄都合十九代前文之通禁裡其外之御方様より追々拝領の品今以持傳相撲之古實傳授仕来申候 一、 當時諸國之行司並力士共へ免許私家より代々差出来申候 右之通御座候 以上 |
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